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ビバ!漫画家 井出智香恵氏
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    先日のこと、思わぬ方が尋ねて来られました。
    その方は井出智香恵さん。
    ご存知の方もいらっしゃるかも知れません。そう、漫画家の井出智香恵先生です。最近知ったのですが、彼女はこれまでに出版した漫画のページ数は、68000ページで女性漫画家としては世界一なんだそうです。
    そんな偉大な漫画家がなぜ来られたかと言うと、今から十数年前に私の書いた著書「ナニワ女の商いの道〜商売なめたらあかんで〜」講談社刊、がきっかけでした。彼女が私の本を読まれ、以前の1985年の著書「びーだん べったん こめんじゃこ」JDC刊の二冊を是非漫画にしたいと言うことで出版社の社長と二人で池田まで来られました。社長とは初めてお会いしたのですが、話しているとユーモラスで、人間的な温もりもあり、とても魅力的な人でした。話はとんとん拍子に進み、早速「宴っ子」のタイトルで連載が始まったのです。
    残念ながら4回目が終わった頃にこの出版社が倒産し、全てが無に帰してしまったのです。
    井出先生の手による人物画のあまりの美しさと、現実の私との違和感は相当なものがあって、私としては正直ちょっとホッとした気持ちもありましたが、作者の先生にはそうではなかったのでしょう。
    ちなみに彼女のデビュー作は「リボン」(集英社)に連載されていた「ヤッコのシンドバット」です。次いで、レディースコミックに連載した「ビバ・バレーボール」がスポコン物のはしりとしてヒットし、1990年代に入って、嫁姑の永遠の問題をテーマにした作品の数々で押しも押されもせぬ、不動の地位を得られました。
    今回は出版社の倒産と運命をともにしたご自分の作品へのこだわりがあったのかも知れません。出来れば、「宴っ子」を完結し、何とか日の目をみせてやりたい。このままでは可愛そうだ、とおっしゃるのです。原作者の私としては、先生にそこまで愛着をもってもらえたのはとても嬉しいことです。しかしこれは十数年前に消えたはずの話。
    今はまだ、どうなるか分かりませんが、もしどこかの出版社から単行本が出版されるような事態になれば、またお知らせ致します。
    今回は私の人生の漫画化の〜恥ずかしくも嬉しい思い出の一コマです。


    女性漫画家として世界一のページ数(68000ページ)で、
    今も活躍中の井出智香恵先生。石ノ森章太郎さんが10万ページと
    言いますから本当にすごい方です

    先生の最近のマンガをとんちんかんに!
    ご来店時にサインをいれて下さいました
    さすが絵のセクシーさも、おとろえず、ステキです


    今は亡き母との二人の絵も私の一生の宝ものです
    幼い頃、こんなに可愛かった!(笑)ようです


    この美しい女性のモデルが平川好子〜なんて
    誰ぞ知る(笑)
    誰ぞ知る(笑)


    posted by: shobentango | - | 01:51 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
    「正弁丹吾亭」と「正弁丹吾」
    0
      昔から法善寺横丁にある老舗「正弁丹吾亭」とここ池田の「正弁丹吾」との関わりを尋ねられることはありましたが、このところそんな問い合わせが多くなってきました。
      二年前に「正弁丹吾亭」の経営が「がんこ寿し」さんに変わったからかもしれません。
      かの有名な「正弁丹吾亭」と、義父の始めた「正弁丹吾」は関係ございません。
      ただその昔私が二十歳のときに一時期、正弁丹吾亭で見習いをさせてもらったことがありました。その経緯を書いた文章がありますので引用します。


      『ナニワ女の商いの道〜商売なめたらあかんで〜』
      2001年10月10日 講談社刊 

      織田作之助の小説でも有名な正弁丹吾亭の存在は、いやでも私の意識にのぼってくる。もちろん義父の「正弁丹吾」は、すぐ横の公衆便所(小便たんご)にちなんでつけられたもので、彼の意識の中に「正弁丹吾亭」があったのではない。文学に無縁の義父は、きっと正弁丹吾亭の存在さえ知らなかったに違いない。けれども、同じ名前の正弁丹吾が、片や無名、片や有名であってみれば、無名の方が有名を意識するのは自然の心理だ。いったいその有名な正弁丹吾亭はどんな店やろ、という切実な好奇心から、私は織田作之助の描いた老舗を見に行ったのだった。
       法善寺横町の水掛け不動尊の横手に「正弁丹吾亭」はあった。道頓堀界隈は派手な料理屋も多く、そんな中で人目につかずひっそりとたたずんでいた。店の構えも大きくないが、大地にしっかり根を張った樹木のように、どことなくしっくりとくる風韻があって、そこが老舗の老舗たる所以かもしれない。濃紺の地に「正弁丹吾亭」の文字が白抜きにされた暖簾を眺めていると、入口の横に貼られた小さな紙が目に止まった。『女中さん求む』と書いてある。私はまたとないチャンスだ、と咄嗟に決断して店の暖簾をくぐった。
      「おこしやす」
      「表の貼り紙を見てきたんですが・・・・・・」
      「あ、そうでっか。おーい。募集のお人や」
       奥にむかってそう声をかけられたのが、ここのご主人だった。物腰や声に落ちついた風格が感じられ、真っ白の割烹服できちんと帳場に座っておられる。そこから、奥の厨房とホールの隅々まで店内をひと目で見渡せる仕組だ。夕方のことでお客さんも少なく、全部で六人ぐらいいた女中さんも、そのときはひとりだけだった。板前さんの高下駄の音が、静かな店の中に快い響きを立てている。
       私が真っ先に目を見張ったのは、塵ひとつ落ちていない店内の清潔さだった。テーブルもカウンターも床も、ピカピカに磨かれている。こんなつややかな光沢が、一朝一夕に出るものではない。毎日の掃除がどれほど行き届いているかは一目瞭然だった。きらびやかな外見の装いではなく、中に入ってみて初めてわかる心地よさ、奥ゆかしさ、暖かさ――これは紛れもない伝統の美しさなのだ。
       おかみさん(ご主人の奥さん)と簡単な面談があって、
      「一週間や二週間では困りますのや。しばらく辛抱できまっか?」
      「はい。よろしゅうお願いいたします」
      「ほな、きばりなはれ。ここにあんさんの連絡先を書いとくれやす」
       私は池田の住所を書いて、女中に雇ってもらった。
       仕事の内容は教えてもらうまでもなかった。他の女中さんたちの手前、ホールではあまり出しゃばらないようにと心がけ、私はもっぱら店内の掃除やお運びにいそしんだ。掃除も半端なものではなかった。おかみさん自らが便器の中に手をつっこんで洗われていた姿に感動すら覚えた。
       ちょうどひと月が過ぎた頃だったと思う。その日も私は接客の仕事に精いっぱい張り切っていた。「おこしやす」と愛想よく迎え入れ、注文をきき、お酒を出し、料理を運ぶ。そして帰られるお客さんを、
      「おおきに! またどうぞ」と大きな声をかけて送り出す。・・・・・・店の中がだんだんこみ出してきたとき、暖簾をくぐって入ってきたお客さんのひとりが、ちょうど帳場の側にいた私に目を止めて、素頓狂な声を上げた。
      「正弁丹吾の姉ちゃんやないか! あんた、こんなとこで何してんねん!」
       その声でみんなの目が私に集まり、私は一瞬言葉もなく立ちすくんだ。正弁丹吾は正弁丹吾でも、池田の正弁丹吾のなじみ客であった。正弁丹吾の姉ちゃんとはどういうことか。知っているのはこのお客さんと私ばかりだ。私は血の気の引く思いでご主人の言葉を待った。いったいこれはどういうことやねん?・・・・・・しかしご主人は、厳しい口調で、
      「何したはります! お客はん、待ったはりまっせ! はよビール持って行きなはれ」
      「す、すんません」
       わずか十秒間の出来ごとだったが、私の中で時間が凍りついた瞬間であった。私の女中奉行も今夜限りだろう。そう覚悟を決めて、私は閉店まですべてを忘れて仕事に没頭した。
       始めからそう言っておけばよかったのだ。けれども、老舗の料理屋のことだ。極秘に守ってきた店のしきたりや味は、決してオープンにしない因襲がある。たかが二十歳すぎの娘とはいえ、他店の娘、しかもこれから自分の店を持とうという者を、無条件に受け入れてもらえるだろうか。女中の身でもその気になれば、板前さんの極秘の技をこの目で見て、少しは伝統の味を盗みとれるかもしれないのだ。もちろん私にそんな思惑は全くなく、東京の修業を今も続けているつもりでいた。第一私が女中に雇ってもらったのも、全く予期せぬ偶然の賜物だったのだから。だがここは「かめ寿し」ではない。「ときわ」でも「みはし」でも「白鳥」でもない。ここは「正弁丹吾亭」なのだ! そして私は、「正弁丹吾」の娘。大事な店の屋号のこの奇妙な偶然の一致を、私は軽く見るべきではなかった。最初の面談のときにちゃんと話しておくべきだったのだ。たとえそれで断られたとしても・・・・・・。
       店が終わると、私はご主人に呼ばれる先に帳場に行った。そして今までのことをすべて話した。
      小さい頃から義父の店を手伝ってきたことや、義父が死んで、その店を母と私が継ぐことになったこと。今はちょうど店の改装中で、一年間東京で修業してきたこと。この店にきたのも、ひと目見てみたかったからで、募集の貼り紙を見て突然その気になって飛び込んでしまったこと・・・・・・。そして、今まで黙っていてほんとにすみませんでした、と頭を下げて謝った。それからひとこと、義父の名誉のためにもこうつけ加えるのを忘れなかった。
      「義父が狎喫枌宛祗瓩般症佞韻燭里蓮店の横に公衆トイレがあって、その狆便たんご瓩らつけたんです。こちらのお店の名前を真似してつけたわけやありません。義父は絶対にそんなことをするような人ではありませんでした」
       黙ってきいておられたご主人の口もとに微かな笑いが浮かんで、穏やかにこう言われた。
      「そうでっか。ようわかった。それにしても、えらい度胸のある子やなぁ。ま、ここにいてる間にしっかり修業しなはれや」
      「え?・・・・・・は、はい。一生けんめい頑張ります! ありがとうございます」
       こうして私は、暇を出されることもなく、ビルが建つまで働かせてもらうことができた。そしてその間、ご主人は私に対してこれまで通り何ひとつ変わることなく接してくださった。おかみさんからは、この日以来、ひとことも口をきいてもらえなかったが。・・・・・・
       最後の日、お世話になった礼を言い、名残り惜しげに店内を見渡して、見納めの最後の一瞥を暖簾にくれていると、ご主人が高下駄をつっかけてやってこられ、
      「あんさんやったらやれます。頑張りなはれ!」
       と最後の言葉をかけられた。そのご主人も今はなく、代も変わってしまったらしい(子供さんがいなかった)。だが伝統の味は、今も当時と全く変わっていない。伝統とひとくちに言っても、これを守り抜くのはすごいことだ。訪れるたびに、当時が蘇ってくる懐かしい器。昔ながらに盛り付けられた昔ながらの味。私はいつ行っても、その妙味を心ゆくまで味わいながら、ふっと帳場あたりにご主人の視線を感じてふり返る。テーブルにも、カウンターにも、店内のそこかしこにご主人の影を感じて、いきなり背後からご主人の声がきこえてきそうだ。あんさんやったらやれまっせ、と。



      引用しながら、懐かしさで目頭があつくなりました。
      池田の「正弁丹吾」は義父から私、私から子供たち(長男・三男)へと、今もバトンはつながっていますが、このことへの感謝を忘れず、奢ることなく地道にやって行ければと思っています。


      2004年に発刊されました「北摂今昔写真帖」に出ています
      昭和35年頃の池田市の公共施設や店舗、病院などが取材されています


      昭和45年私の独立経営のスタートでした
      今はこんな外装に変わっていますが、23才の年齢で
      どうしてこんなことが出来たのか今は不思議なくらいです


      この「ナニワ女の商いの道〜商売なめたらあかんで〜」
      2001年10月10日、講談社刊のP42〜P48にこの法善寺横丁の
      正弁丹吾亭と池田の正弁丹吾のくだりは書かせて頂きました


      今も法善寺横丁に行くとこの正弁丹吾亭の看板が目に入ります
      そして水掛け不動さんにお参りすると我が青春の1ページがうれしく
      蘇ります

      posted by: shobentango | - | 23:39 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
      美味探求〜大阪コテコテツアーに参加して〜
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        先日大阪にとんとご縁のない方々との二日間をご一緒させて頂きました。
        題して「大阪コテコテツアー」
        なんば花月―NGKの漫才を堪能〜黒門市場〜法善寺横丁〜通天閣界隈散策〜というコースでした。
        同じ大阪に住んでいながら、実際に通天閣まで足を運んだことがなかったことに気づいて、我ながらびっくりしました。
        ”灯台下暗し”とはこのことですね。
        通天閣周辺には串カツ屋さんのお店が並び、どこも申し分のない盛況ぶりでした。
        私たちは中でも有名な老舗の“だるま”さんに入ってご馳走になりました。串カツと言っても、ここで出されるものは大きさが普通の3倍はあろうかと思われる特大なもので、それを実に美味なソースで食べるのです。このソースは「二度づけごめん」と言って、一度だけつける仕きたりになっています。見ていると、どのお客さんもこのルールを守っているようで、ここ大阪の食文化の一端が世界にまで浸透していることを痛感しました。もしかしたら“大阪のたこやき”を知っている日本人よりも、外国人の方が大阪の食文化にくわしいかもしれない。それくらい外国人観光客でどの店も賑わっていました。
        通天閣と言えば、近くには“あいりん地区”があり、公園には数年前までホームレスの人たちがテント生活をしていました。行政の力でその数も減り、今では昔のおもかげも薄れてきた観がありますが、大阪のシンボルの間近に”あいりん地区”を擁し、共存できたことを思うと、全てを包み込んでしまう大阪のふところの大きさを感じます。そこにこそ大阪独特の食文化も育まれてきたのかもしれません。あの決して上品でない串カツの、見事な大きさを思い出しながら、そんなことを思っています。


        黒門市場も、ここはもう中国?韓国?と
        思うぐらい外国語があふれていました


        レトロな100年前の通天閣界隈
        模型がなんとも大阪らしい雰囲気を醸し出していました


        免震回収の図がとてもわかりやすく納得
        長い歴史の中で安全な建物に変化しているのが
        よくわかりました


        あべのハルカスをながめ、眼下には天王寺動物園。
        平和で美しい大阪の空でした
        posted by: shobentango | - | 00:04 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
        美味探求〜東京の旅〜
        0
          美味探求 東京

          今回の旅は
          東京の店のリサーチというより、オホーツク海を知り尽くした金澤このみ社長のお魚談義を、お聞きしたくての訪問。
          思い起こせば2 年前!
          我が社の社長と専務同伴で網走を訪れました。
          網走市役所から漁協まで、現地出身のこのみ社長のご配慮で多くの魚について学ばせていただきました。
          今も網走に流氷が接岸していて風が流氷をはらつた後の海にはプランクトンの山。
          それを食べた春の魚は、どんなに美味しいかということです。
          そのおかげで我が社の「ひら川」「とんちんかん」にも匠と言われるかたの干物が入ってくるようになりました。
          「北海道 味くらべ」
          鰊ーホッケーなめたガレイー真イカー氷下魚(こまい)
          両店も人気メニューになっております。
          東京ー京橋
          神田新八での久しぶりの「宴」は
          お魚の話に特化したこのみ社長との時間は、ゆったりとした中に高級魚をどう取り組むかの宿題をしっかり残したものでした。



          北海道といえば、2007年9月13日に書いています。
          それは北海道封印という決意を解いての旅でした。
          10年前の思いを少し書かせて頂きます。


          本当に久々に、北海道に行ってきました。

          この旅に出るということ、特に北海道という地に赴くことは、実は特別な思いと決意がありました。私は、ある理由から、北海道の地を踏むことを長年自らの中で封印していたのです。理由は、友人のお子さんが、大学卒業の記念に訪れた北海道で、乗っていた自動車が正面衝突事故に逢い、命を落とされたからです。彼女は元スチュワーデス、そしてご主人はパイロットというご家庭でした。わが子を失った悲しみで、彼女はその美しい髪の毛を全部剃ってしまいました。子どもが親より先に逝ってしまう悲しみは想像を絶するものです。その半身を失くしてしまったかのような、つらい姿を目の当たりにしていた私は、彼女の悲しみを共有はできないけれど、内緒で心の中で誓ったのです。
          「私も、しばらく北海道には行くまいと。」

          それから長い年月が経ちました。今回この地に行く決心をしたのは、JCでいつもお世話になっている先輩のHさんが私と会うたびに、
          「君の店には、あの頃のにおいと勢いがないね」
          とおっしゃいます。

          確かに私は25年前に「頓珍館」のオープン当初、日本全国の美味しいものをメニューに加えていました。例えば、隠岐島の鴫焼き、鹿児島のトンコツ、秋田のきりたんぽ、そして週に一回岡山からいわなまで取り寄せていました。

          「もうすぐ人生は終わるけど、君は何を残す?そしてどう終わるの?」
          「人生って、間に合えばいいんです。足りていればいいんです」よね、と。

          丁度、時期的に商売の方もそろそろ子どもたちにバトンタッチできるよう準備が整い、精神的に自分を見つめ直していたときでもありました。お店は長男、三男が、様々な場所で修行し、自身のオリジナリティと組み合わせ、ゆっくりですが歩み始めています。
          そろそろ、私も残りの人生、Hさんのおっしゃる「足りていれば」の答えを出すために使ってみてもいい頃かもしれません。
          北海道の封印も、そろそろ解いても良いだろう。食の現状を見に、全国行脚の旅に出よう……、そのような意味の旅の始まりでした。



          この頃から10年経った今、この旅の意味を噛み締めながら、私の美味探求の旅はまだまだ続きそうです。
          そして、33年経った今、『新生とんちんかん』として又、新たなチャレンジを
          昨年11月にスタートさせて頂きました




          我社の三代目社長(長男)、専務(三男)との旅は
          干物の匠に出逢うという旅にもなりました


          このみ社長ご用達の、この新八さんは高級なお魚満載の
          素晴らしいお店でした
          このお値段で満席・・・うらやましい限りです


          この「北海道味くらべ」は人気メニューの一つになりました


          この流氷の海がもたらす豊かさは、現地を知る漁師さんのみか・・・
          私たちはその恵を受けておいしい魚にありつけます




          『新生とんちんかん』リニューアルイベント第二弾

          2月末まで 15%オフ 続きます!!



          posted by: shobentango | - | 22:32 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
          風のように去った山ちゃん
          0
            皆さま、新年明けましておめでとうございます。
            今年も皆さまにとりまして、よき一年でありますように。
            どんなお正月をすごされましたか。それぞれに、いろんないい年越しをされたことと思います。
            私もいつもながらのバタバタした年末年始も過ぎ、やっと日常生活も落ち着いてきて心の中にしまいこんでいた事と率直に向かい合える心境になってきました。
            それは従業員のひとり山ちゃんの死です。
            五年前にOL(保険会社勤務)をやめ、私の店にアルバイトできてくれました。駅前のひら川でひととおりの仕事(調理・接客)を学んだあと、市立池田病院の中に出店している「レストランひらり」で働いてくれることになりました。
            素直で明るく、みんなから「山ちゃん」の愛称で呼ばれるようになった彼女は、ゆっくりですが店の中心メンバーになって頑張ってくれていました。
            ところが、昨年の夏頃に体調が少し悪いと病院で診てもらったところ、肺に癌が見つかりました。(すでに末期)
            約2か月あまりの短い間の10月31日に43歳の若さでこの世を去ってしまったのです。
            あんなに元気だった彼女が?なんで?うそやろ?・・・私たちはみんな、この痛ましい事実を信じられず、とうてい受け入れることが困難でした。まして頓珍館のリニューアルオープン(プレオープン11月3日)を間近に控えて大変なとき。
            私は
            「彼女のことは今は考えない、思わない」
            と自分にもみんなにも言い聞かせ、意気だけは落とすことなく無事にオープンを迎えることができたのでした。
            そして今やっと、心から彼女のことを偲ぶことができるようになった次第です。
            思えばあまりにも短い付き合いの中で、こんなにも多くの思いを残してくれた人もいません。一期一会の人生を本当に自覚して毎日を生きているのか。ともすれば多忙に押し流されてしまいがちな私に、彼女の死はこの最も大切な人生訓を再確認させてくれました。
            ご主人と退職の挨拶に来てくれたときも
            「お店が大変な時に私が倒れてしまって、本当に申し訳ありません」
            お通夜の席で彼女のご主人から、
            「お店が大変な今、自分が退職して本当に申し訳ない。と最後まで言っていました」
            私は返す言葉がありませんでした。風邪などで休養している人ならともかく、
            死を目前にした人の言える言葉でしょうか。(しかも彼女は正社員でもなくアルバイトでした)
            山ちゃんが私に与えてくれていた大きな安心感を改めて思い知らされました。あの人に任せておけば大丈夫。
            もう少し時間があれば、という無念さと一方では、こんなにもあっけなくこの世を去った彼女の人生に、何か一陣の風のような清らかさを感じます。
            いつか雑誌である牧師さんのこんな文章を目にしたことがあります。
            「地獄の底から這い上がってきた聖者よりも、カナリアのように清らかに生きて、清らかに死んだ聖者の方が私は好きだ」
            山ちゃんは聖女などではありません。家計を助けるために明るく一生懸命働いているごく普通の女性でした。でも今、私の心に彼女の心がカナリアのように美しく蘇るのです。短い生涯の最後の日々を私の店で働いてくれてありがとう。
            もう少しだけ生きていてくれたら新しい「とんちんかん」もひと目見ることができたのに。
            そんなこんなを、もう一回会って話をしてみたいなぁ!山ちゃん。



            恒例の慰安旅行出発!
            いつもここ 池田市役所前からバスが出ます


            昨年は若者の希望が多かった「ながしまスパーガーデン」
            ここから若者組と私たち温泉組に別れます
            最前列に山ちゃんが・・・


            アトラクションのジェットコースターなどが
            後ろに見えるところで記念の集合写真!


            美味しかった近江牛!
            おいしいおいしいと食べていた
            山ちゃんの声が聞こえます
            posted by: shobentango | - | 01:23 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
            33年目の奇跡
            0
              前回、”とんちんかん“のリニューアルオープンのことを書きましたが、ひとつの出来事から種々な人間ドラマが生まれるものだとつくづく感じます。
              なかでも印象的だったのは真理ちゃんからのメールでした。私のフェイスブックがほんの偶然から目に止まったらしく、
              「おばちゃん、フェイスブックで”とんちんかん”のこと見たよ。おばちゃんがフェイスブックしてるなんて夢にも思わなかったけれど。明日友達の結婚式で大阪に行きます。その時必ず会いに行きますね」
              彼女こそ誰あろう、頓珍館、33年前のオープン時の上得意さまだった健太郎くんの娘です。
              「こんな偶然、お父さんの仕業としか思えへん」
              「おばちゃん見つけた時、驚きと感動で手が震えたわ」
              14年ぶりに会った、真理ちゃんはそう言って涙ぐんでいました。
              この友人健太郎くんのことは、以前本にも書いてますから、少し長くなりますが引用してみます。


              健太郎は「筋萎縮症」という難病を煩って、この先の人生を、人の手を借りずに生活することができない。彼は中学校の同級生で、これまで私の店をずっと引き立ててくれた友達だった。昭和45年に「たんご」をオープンしたときは、豊中市役所に勤め出したばかりの彼が、同僚をたくさん連れてきて、閑古鳥の鳴いていた淋しい店をどんちゃん騒ぎでもり立ててくれた。「シーホース」のときもそうで、オープン早々の時期はいつも健太郎と彼の仲間がどやどやおしかけてきて店を賑わせてくれた。そして、お店がどうにか軌道に乗り始めると、もうこれで大丈夫だとでもいうように、いつしか彼の姿が遠のいていく。健太郎はそんな友達だった。
               中学生の頃からやんちゃだった彼は、喧嘩っ早く、大酒を飲んではヤクザと喧嘩して奥さんを心配させた。一度など、したたかに酔った彼が、ふらつく足で店にきたかと思うと、前歯を見事に全部折っていて私たちをびっくりさせた。とりわけ今も語り草になっているのは、健太郎の結婚式だ。新郎のくせに、彼はお酒をあびるように飲んで、ぐでんぐでんに酔っ払ってしまった。そしてとうとう雛壇の彼は、椅子もろとも後ろにバタンとひっくり返って何度仲間がおこしても、また後ろにひっくり返る。披露宴の席で新郎のこんな醜態を見たのは誰もがおそらく始めてだったに違いなく、記念のスナップ写真にも新郎の姿はほとんど写っていなかった。後でふり返って懐かしむすべもなく、新郎の健太郎はなんと新婦に淋しい思いをさせた事だろう。
               やることなすことハチャメチャで、市役所でも「桂春団冶」の異名をとっていたらしいが、反面彼はシャイで、お酒の飲み方もきれいだった。ええとこのぼんぼんなのに、昔飲めなかったサントリーの角瓶が彼の美学で、いつもカウンターに角瓶を置き、なんとも言えない表情で飲んでいた。
               難病でそれもできなくなった彼は、ときおり電話してきて私に言った。
              「店はどないや? みんな元気で頑張っとるか?・・・・・・行きたいのう・・・・・・」
              「何言うてんの? いつでも迎えに行くって、そう言うてるやろ。行くから迎えにこい、くらいのこと言うてや」
               私がそう言うと、彼はいくぶん困ったような口調で言った。
              「小便に困るんや。尿瓶もっていったら、お前とってくれるか? 俺なぁ、他のヤツはいややねん・・・・・・」
              「あんたそんなことで悩んでたん? アホやなぁ・・・・・・」
              私は元気なときの彼のシャイな顔が浮かんで、泣きたいような気持ちになった。
               それから数日後、車椅子の健太郎をお店に迎えて、彼は久しぶりにサロンの夜を楽しんでくれた。ショータイムで歌う多香ちゃんの姿を眩しそうに眺めながら、なつかそそうに水割りを飲んだ。グラスを持つのが精一杯で、側で何かと気を使っている育ちゃんに、
              「お前もええ女になったのう。昔はなぐったろかと思うくらい、生意気なヤツやったのにのう」
               と口は達者だ。カウンターの隅っこでマミちゃんが目を潤ませて彼を見ている。健太郎が健康だった頃、マミちゃんは自転車で倒れた拍子に顔にアザをつけ、外れた顎をガクガクさせながら店に入ってきたことがあった。びっくりした健太郎は、いきなり大声で言った。
              「どこのどいつや? お前にこんなことしたんは! おっちゃんがぶん殴ってやる! 誰や? 言うてみ!」
               マミちゃんが、「違う違う」と身ぶり手ぶりで答えるのを、彼はもどかしそうに、増々いきり立って言った。
              「若い娘に手を上げるヤツなんか、オレは許さへんぞ! どこのどいつにやられたんや? おっちゃんに言え!!」
               マミちゃんの外れた顎が元どおりに戻り、やっと口がきけるようになって、
              「健太郎さん、そんなにびっくりせんといて下さい。こけたり顎が外れたりするのん、しょっちゅうですねん」
               と笑って言うと、健太郎は拍子抜けしたように、
              「顎が外れるて、お前、大丈夫かぁ! いっぺん病院で診てもろた方がええのと違うか?」
               と心配して言ったものだ。そんな健太郎がもはや仕返しに行くどころか、水割りのグラスもろくに持てない体になっている。マミちゃんにとってもそれは悲しすぎることだった。
               しばらくして、私は段差のあるトイレではなく、入口の一枚目と二枚目のドアの間にもうけた特別のトイレに、車椅子の彼を連れて行った。
              「ママ、僕らがするから」
               と一緒に来ていた幼なじみのひとりが言ったとき、健太郎が口を挟んだ。
              「オレはママにとってもらう。同級生の女にとってもろたら、ええ思い出になるやろう!」
               そう言って友達を下がらせ、私たちは狭い特設トイレで二人だけになった。
              「お前、ティッシュもってきたか?」
              「男のあんたに何でそんなもんいるのん?」
              「オレやない。お前の手につくやろが」
              「手なんかあとで洗う。余計なこと心配せんと、はよしいや」
               私は彼の体を支えながら尿瓶をあてがった。
              「悪いのう、お前・・・・・・」
              「何言うてんの!」
              「お前は、ほんまにええおなごやのう・・・・・・」
              「・・・・・・・・・」
               ほんの少量のおしっこが尿瓶に流れ、また止まって、また少し流れる。その悲しさに胸がつまったが、そのとき私は、二人とも生まれたまんまの姿でこの空間につつまれているような気がした。男も女もなく、排泄という自然の営みに不浄さなど微塵も感じられない、何か突き抜けたような空間。私はこんな清らかな空間を与えてくれた健太郎に心の中で手を合わせた。
               トイレから出ると、彼は一変して口が悪くなり、中学の頃の私のことを吹聴しだした。
              「俺がサッカー部で、こいつが陸上部やねん。同じグランドで練習してると、こいつの黒い短パンから白いパンツがチラッと見えるんや。それが刺激的でなぁ。オレが残念なんは、こいつと一回もやれへんかったことや」
               つまりこれが健太郎流の私に対するお礼の言葉だった。
              「ナニワ女の商いの道〜商売なめたらあかんで〜」2001年講談社刊より引用



              33年前にこの「頓珍館」をオープンした時に、心配して店をもりたててくれた彼が、今度のリニューアルオープンでは、自分の代わりに娘を寄こしてくれたのでしょうか。その前にはこんなこともありました。

              今から十六年前に「麺料理ひら川」をオープンした時、わざわざ御祝いを届けてくれました。死が迫っていた健太郎君本人は、病状の悪化で来れませんでした。
              もう食べることも出来ず、点滴の毎日だと聞いた私は、ある日長男(元社長の千人)と健太郎くんを尋ねました。食べれなくても、せめて匂いだけでも。そう思って材料を持参し、台所を借りて長男と二人、心をこめて店自慢の自家製のうどんと本手打ちの蕎麦を作り、病床の彼に差し出しました。すると、どうでしょう。彼がベッドから身体を起こし(もちろん奥さんの手を借りて)食べてくれたのです。呆気に取られている彼の子供たちの見ている前で、さらに一口、そしてもう一口、じっと噛みしめるように。目線が長男に向いた時、
              「うまいのう」
              と無言の言葉を言ってくれているのが私にはわかりました。それから彼をかこんで同じうどんを食べている奥さんと二人の子供たちをなごやかに見回してから、最後に私を見てささやくようにこう言いました。
              「おおきに」
              台所でさんざん涙を流してしまった私のことをちゃんと知っていたのです。

              健太郎君が息をひきとったその日の朝、真理ちゃんのウエディングドレスが彼の家に届きました。最愛の娘の晴れ姿を見ることもなく、あの世に行ってしまった健太郎くん。

              あまりに悲しく、彼の無念さは私の心に今も残ります。

              「それにしても不思議ですねぇ」
              と彼女は、リニューアルしたばかりの”とんちんかん”を見て言いました。
              「あのフェイスブックに目が止まらなかったら、このタイミングに来ることもなかったんですから、これは絶対に父のさしがねに違いない」
              と。
              「そうやねぇ。リニューアルしてほんまにやっていけるのか、心配でしょうがないんやろう。だから自分ではこれんから、娘の真理ちゃんを見にこさせてくれたんやね」
              「でも考えてみたら、これまでのおばちゃんに会ったことってそんなにないよね。でも全然そんな気がしない」
              「わたしたちも同じなんよ。健太郎くんがひょっこり顔を見せてくれるのは、オープンとか何かがあったときだけ。あとは2年3年まるで梨の礫」
              「だから不思議なんよねぇ。私達は本当に池田中学校の同級生というだけなのにね」
              夜も更けて、私はこうして人の縁はその人の死後も形を変えて続いていくんだと、しみじみ感じました。


              さて古い想い出にふけっているうちに、今年も数日を残すばかりになりました。
              私のブログを読んで下さったみなさま、この一年ほんとうにありがとうございました。
              このご縁を大事にしながら、また来年も頑張っていきますのでよろしくお願い致します。
              では皆さま、よいお年をお迎え下さいませ。
              来年も本年同様ご贔屓賜りますようお願い申し上げます



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               年末は30日まで通常営業させて頂きます
               新年は4日より通常営業させて頂きます
               新生「とんちんかん」の定休日は月曜日となります
                   池田市役所すぐ東うら
                    池田市城南1-2-3 (072-751-0870)
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              毎年恒例のお年玉セールは
              「とんちんかん」リニューアルオープン記念イベント第二弾
              1月4日〜2月28日まで15%オフとさせて頂きます









              これは娘さんからお借りした写真ですが
              どこまでもはちゃめちゃ・・・
              戦後生まれの懐かしい男性像です



              もう歩けなくなった筋萎縮症の健太郎
              同級生の中で他人の私にどこまでも優しかった
              そんな男性はいなかった。私の無二の親友です



              同じ顔をした息子さんと
              どんなに苦労しても
              「お酒を飲まない時の彼は本当に優しくて
              いい人なんですよ」
              と言い切る奥様
              看護婦の一番上のライセンスをもつキャリアでもあります



              お父さん亡き後、この一家に孫の男の子と女の子が増えました
              目を細めて優しく見守る健太郎の顔が浮かびます
              posted by: shobentango | - | 23:04 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
              とんちんかんリニューアルオープン
              0
                このたび「頓珍館」が33年の歴史に幕を閉じ、新生「とんちんかん」となってリニューアルオープン致しました。
                昭和58年オープンして33年、文字通り頓珍漢なハプニングを重ねながら、いろんな想い出を作ることができました。
                私の同級生で、筋萎縮症という難病を患っていた健太郎君(50代で亡くなった)が初めてお店に来てくれた時の喜びと感激。その彼が車椅子の生活に入って以来ずっと私の心に"車椅子の人にも来て頂けるお店に"の思いがあり、70歳を機にやっと導入する決心がつきました。ところが、工事をすすめていくとガス管と水道管、配電までがたつきがきており、いっそのこと新たに改築してはどうか、とのこと。考えに考えた末に、これが私の最後の大仕事になるだろうと思い、思い切って決断したのでした。
                人間の命に終わりがあるように、「頓珍館」にも終わりがあってもいいのではないか。そんな思いもありましたが、「頓珍館」で汗を流す私たちにも、心から楽しんで下さるお客様にも、それぞれに秘かな世代交代を繰り返しながら今があることを思えば、それは生みの母の傲慢な考えでした。
                あの「池田村字たんぼの横の頓珍館」が、私たちの精一杯のおもてなしの温もりで血の通いあうお店になり、皆さんに愛され続けてきたのは、わずか30年少々にすぎませんが、少しは伝統の風格も備え始めてきたのです。このあと、どんな歴史を刻んでいくかは、あとに続く人たちの仕事です。
                私としては最後に健太郎君のような障害をもった人にも気安く喜んでいただけるような店作りを完成させること。それは私の初心でもあるお店にかけた"ひとつまみの愛"やさしさと温もりの心を形に変えての表現、1日中「頓珍館」にもかかわりをもったすべての人たちへの御礼です。
                そして先日、新生"とんちんかん"のリニューアルオープンセールのひとつとして、11月5日から15日までの10日間行ないました。ご飲食代全て半額にさせて頂いたところ、連日超満員の大盛況。正直こんな大盛況は後にも先にも初めてでした。もちろん50%オフの大サービスも初めてのことでしたけれど。
                さあ、16日からが本当の勝負です。サービスが値段だけでなく、心のサービスができているかどうか、真価の問われるときです。
                商売という実に手ごわい仕事に立ち向かう若い人たちへの思いを、ひとつの形にできた私は、これまで培ってきた、いわば"正弁丹吾流商御伝法"というトンチンカンの空気の中で、思い切りはばたいてくれることを祈ります。


                33年前にオープン致しました「とんちんかん」
                今年11月に2度目の改装をさせて頂きました
                30年以上のご贔屓様も多く、アドバイスもたくさん
                頂けることと思います


                「一座建立」の社訓のごとく
                皆が力を合わせて、一つのことをやり遂げる!
                これからもよろしくお願い申し上げます


                店内の半分のスペースが椅子席に。
                車椅子の方も気楽に来て頂けるようになりました


                沢山のお花を頂戴致しました
                新しいお店がうれしそうでした
                これからお返しの時代に入ります
                posted by: shobentango | - | 02:53 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                秋の風にさそわれて
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                  白川郷に行ってきました。
                  白川郷は荘白川(しょうしらかわ)ともいい、現在は岐阜県白川村と高山市荘川町に分かれているそうです。
                  また、稲作に不向きな土地柄で養蚕とともに発達した家内工業の一つで、その発展にあわせて大型化、多様化していったそうです。
                  合掌造りが世界遺産へ登録後は、保全のために大規模な補修や屋根の葺き替えを30年〜40年に一度行う必要があるそうで、多くの人手と時間を要する大掛かりなものであり、住民総出で行われた。住民たちは近隣で「組」(くみ)と呼ばれる互助の組織を形成し、その単位を土台として「結」(ゆい)を行なう。屋根の葺き替えにおいて重要な「結」は、鎌倉時代にこの地に根付いたとされる浄土真宗の信仰に起源を持つものである。屋根は原則として一日で葺き替えた。これは降雨を警戒したからとか、春先に行われることが多く、農作業との兼ね合いで復数日にわたって村人たちの協力を仰ぐことが難しかったなどと説明されている。加須良集落に関しては住民が少なかったため復数日にわけられていたそうです。
                  相当な人たちがここ白川郷に来られているようで、私は今回神田家の中をゆっくり見せて頂きました。
                  こんな工法でよく家が建つものだと。
                  この家のおばあさんの面白く、しっかりとした案内もすごいものがありました。
                  3時間の自由時間、狭くて広い郷の中をゆっくり散策しました。
                  ふと気になる酒屋さんで好物の「にごり酒」と「どぶろく」を買い、帰路につきました。



                  にごり酒とは一般的に「白濁した日本酒」のことで、日本酒造りの工程のひとつに「上槽」と呼ばれる醪(もろみ)を固体の部分(=酒粕)と液体の部分(=原酒)にわける作業があります。アルコール発酵によってできた醪を酒袋などに入れて圧力をかけて搾っていくのですが、ここで目の粗い酒袋を使うことで醪の中の溶けきれていない米の固体部分が原酒の中に残ります。これが白濁のもとになるそうです。

                  どぶろく(濁酒、濁醪)とは、発酵させただけの白く濁った酒。十二六(どぶろく)と書いたり、もろみ酒、濁り酒(にごりざけ)ともいう。炊いた米に米こうじや酒粕に残る酵母などを加えて発酵させることによって造られる、日本酒の(清酒)の原型といわれています。



                  日本昔ばなしに出てきそうな
                  この白川郷の写真がどれだけの人の
                  郷愁を誘うことでしょう


                  神田家の急な階段を上り、上り、一番上まで
                  昇りました
                  ここにまだ人が三世代で住んでいる
                  夢のようです


                  このマップにあるのが現在の家の数!!
                  昔は2000余りの家があったそうです


                  この酒屋さんで、にごり酒やどぶろくを
                  数種類買ってきました
                  にごり酒はやっぱり美味しく、私は大好きです
                  posted by: shobentango | - | 23:48 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                  おわら風の盆
                  0
                    久しい念願だった「おわら風の盆」を見てきました。
                    10日過ぎた今も、目をとじればあの裏切りに満ちた越中おわら節の旋律がきこえ、哀しいまでに美しかった優雅な女踊りが瞼に浮かんできます。
                    風の盆恋歌などで一躍有名になったこのお祭りには、人口わずか2万人ほどの山間にある静かな八尾の町に、毎年30万人もの観光客が訪れるそうです。
                    そんなにも賑わう町の、年に一度の祭りながら、あの静けさは何だったのでしょう。
                    ずっと昔、私は盒脅さんの小説「風の盆恋歌」を読んで以来、一度はこの目で風の盆を見てこようと思い続けてきました。もちろん若かった私は悲しい筋書きのストーリーに心から感動したのですが、それだけならこんなに長く「風の盆」が私の心の底に残っていたでしょうか。そして今、私なりにその謎がわかりかけてきたように思います。
                    町流しといって、坂の多い通りを各町の踊り手たちが、哀愁を帯びた胡弓の音色とともに、おわらを踊りながら練り歩いていきます。
                    色っぽく艶やかな女踊り、勇壮な男踊り、そして躍り手たちが輪を作って踊る輪踊り。
                    私は幸運にも、東町ー西町ー今町ー下新町ー天満町ー福島・・・と行く先々でそれぞれ各支部のおわら踊りを見ることができました。息をつめて見つめている私の胸の中に、静かな感動が広がっていきました。恋愛小説の背景に流れていた風の盆の胡弓の調べこそが、私をついにここまでこさせた原点だったことに気がついたのです。
                    この悲しいまでに人の心をえぐる胡弓の調べこそ、人間の心そのものではないか。土着の人達が生きていく人生のつらさ。失恋のつらさも肉親をなくしたつらさも、憎しみも苦しみも悲しみも、訴えるすべもない厳しい現実の生活を強いられてきた人たちが一年に一度だけ、この祭りの日に、町々を踊り歩きながら、すべての思いを捨てていく。そして新しく再生するのです。そんな思いでみていると、私には踊り手たちひとりひとりに、そしてそれを見ている観衆たちひとりひとりに、同じ心をもった人間としての親近感を覚え、ともに人間であることの喜び悲しみのいりまじった感情があふれて、つい涙ぐんでしまいました。そして、本当に来てよかった。それも若いころではなく、今になってきてよかった、とそう思いました。
                    こんなに大きな感動をもらった「おわら風の盆」のすべての人たちに私の感謝を伝えたい。
                    あのお澄み切った胡弓の調べに、心からの愛を添えて。――



                    この地図にありますように全ての地域で
                    それぞれの時間に踊ります


                    これは「町家で観る」という交通公社の
                    ツアーなるものがあり、家の前に椅子が
                    並びそこで踊ってくれます
                    私はこっそり横で立見!!を。


                    町の各支部でどこを廻るのか〜
                    どこで出会うのか〜
                    わからない夜の祭りです
                    町中がひとつのステージといえます


                    町をまわっていますと神社なども
                    ステージになっているところもあり・・・
                    ライトアップされきれいに踊りが見えます

                    posted by: shobentango | - | 23:26 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                    奇妙なご恩がえし・・・フランスの旅
                    0
                      今年でケータリング十周年の節目を迎えました。私の三男の千麿が始めた事業で、私たち親子の間でその時から秘かに決めていたことがありました。10年経ったら富井様にお礼に行こうね、と。
                      そして先日、フランスのパリを訪ねました。
                      富井様ことトミーは純粋な日本人で今年で85歳になられますが、今も矍鑠としたお姿で、ジョエル・ロブションというフランス料理最高峰の店のテレビ番組のコーディネーターとしても活躍しておられます。
                      そんなお方を私たちが何故にお訪ねしたかというと、話は20年前にさかのぼります。
                      千麿がまだ中学生だったころ、ORA主催の研修旅行に参加したことがありました。たまには旅行もできる余裕が私にもやっと出来た頃だったと思います。その年の旅先はフランスで観光をかねて色々なフランス料理の店を見てきたのですが、そのときのツアーガイドをして下さったのが富井様だったのです。
                      出会い早々、並のガイドではないことは誰の目にもわかりました。単に観光ガイドに博学だっただけでなく、たとえば老舗のパン屋の前を通るときなど、ここのパンは塩の産地が悪いとか、バターの分量はどうのこうのと、そのあまりの詳しさに私達はあっけにとられっぱなしでした。そしてとうとうツアー最後のレストランに入った時、彼は、
                      「あなたたちはいやしくも外食産業の人間でしょう。そのあなた達がこんな店を選ぶなんて最低だ。私はここで一緒の食事はお断りします!私は帰ります!」
                      と憤慨のあまり、さっさと帰ってしまわれました。
                      何と変わったガイドだろう。中にはその単刀直入の言動に不快感をもった者もいたようですが、私は彼の感性の鋭さにとても興味を感じていたので、夜な夜なフランス料理のお話やハーブのお話や、フランスの歴史について、旅の間すっかり仲良しになりました。今回のガイドのお礼にと花を家に届けて帰国致しました。
                      それから数年後、千麿の京都外大卒業後の修行先の店を選ぶときになって、突然富井様が私たちの前に舞い降りてくださったのです。そう、天上界から舞い降りてくださったとしか言いようがありません。ガイドの時はその片鱗も見せず、ただ変なおじさんと思わせた富井様こそ、フランス料理界に知らぬ者もない、ロブションのコーディネーター!ロブションを育てた方!

                      大統領をはじめ、各国の大物でさえ彼とアポをとるのが困難だという、まさに料理界の重鎮だと知った時は正直気後れがしました。
                      でも奇跡は起きたのです。ガイドの時にもらった名刺をたよりに連絡が取れた時の信じられない嬉しさ。非常識なこちらの要望を聞いてくださった時の驚きと感激。
                      「その気があるなら来なさい。勉強になるよ」
                      たしかに勉強になったはずです。包丁の扱い方、いちご1ピースにかけるこだわり、語り尽くせない緻密さ・・・・・・仏料理界NO.1のロブションに漂う空気にふれるだけで大きな勉強になったはずです。
                      こうして、千麿にとって最高の修業の時が過ぎ、彼の帰国と時を経て料理研究家の田中愛子先生の門下生として学び、ケータリング事業を始めたわけです。和食の正弁丹吾グループ(頓珍館、ひら川)とはまた違ったN.Yスタイルケータリング・ベストサーブが、富井様との出会いがあったから始まった事業です。


                      「10年たったらお礼に行こうね」
                      は当然のことで、私達は事前にアポも取らず、お会いできることを祈りながら(お会いできなければ、前のように感謝の気持ちをお伝えすればいい)パリに行きました。そして今度も奇跡は起きました。パリ入り前日リヨン駅からの電話が通じて、私達は面会出来ました。私たちが持参したのは、10年間のケータリングの料理の写真だけです。富井様はその一枚一枚を熱心に見終えると、千麿に笑顔を向けて言われました。
                      「成長したね。赤が上手に使えてる。料理には赤が大事だからね。10年よく頑張ったね。これからも頑張んなさい」
                      彼のこのひと言に、千麿が心震える程の感動に励まされたことか。これからのさらなる精進を彼の前で、そして自分自身に誓ったことか。
                      翌日、富井様は私たちに夕食をご馳走して下さいました。
                      お礼に伺った親子が、お礼のお品もなくご馳走になって帰ってくる。
                      談笑のうちにも料理における美の極地を無言で教えて下さったひとときでした。
                      何も返せない。
                      何も受け取ってくださらない。
                      こんなご恩返しもあるんだ〜と私は胸がいっぱいになりました。




                      ルーブル美術館は以前滞在中に五日間ぐらい通いました
                      今回は車からの写真のみ


                      マチスの本物の絵が飾られる「来々軒」
                      オペラ通りから少し上がったところです
                      達筆な富井様の手紙と記念写真を


                      ここは日本の芸能人を始め各界多くの方が集うところ
                      大好きな石井しげこ様にも逢えて再会に感謝


                      「ご恩」なんて言葉が軽く使えない富井様
                      20年前のフランスの旅から本当に心の変わらない
                      ステキな方
                      85才のステップは青年のようでした

                      posted by: shobentango | - | 22:58 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |